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クジラの歌

生物多様性の理解と動物福祉の向上を目指して。

蛙狩りの記事を読んで信仰ってどうやって変容してきたのかと考えました。

少し前に蛙狩りの記事が大きな反響を呼んでいました。

 

www.hesocha.com

 

色んな事を思ったので書いていきます。

この神事の歴史的背景や抗議活動の歴史も知らないのであくまでも、

立場はいまのところ中立よりです。

 

 

私が、蛙狩りという神事に納得できること。

信仰というものは大きい。当人たちにしか感じ得ない何かがあると思う。

特に、少なくとも鎌倉時代から続く神事をやめるということは非常に困難だと思う。

 

 

私が、蛙狩りという神事に納得しにくいこと。

その信仰の外側にいるので、可能であれば命は奪わないでほしいと思います。

 

 

私が、今回の動物愛護団体の行動に納得できること。

命を大切にしたいという気持ちは最も尊い感情の一つだと思う。

そして、どのような生物にまで愛情を持てるかどうかは非常に個人差の大きいものだと思う。

哺乳類全般にまでは多大なる愛情を持てる人もいれば、

虫や植物にまで愛情をかけれる人もいると思います。

彼らにとってカエルは守るべき小さな命であり、

カエルだから仕方ないという論理は通用しないと思います。

 

 

私が、今回の動物愛護団体の行動に納得できないこと。

本意はどうであれ、過剰なパフォーマンスとして受け止められてしまったこと。

大人の話し合いとして、着ぐるみなど着用せずに通常のしかるべき手順を踏んで抗議活動をしてほしかったと思います。

正直、あのパフォーマンスじみたものを見て、今後一緒に抗議活動を行いたいという人は現れにくくなったんでしょうか。

過去にさかのぼって調べてみた限りでは、2011年ごろから抗議活動は行われているようですが、対話としての抗議活動が行われているかどうかはわかりませんでした。

「蛙の代替品をしてほしい」「矢で射抜く行為だけにしてほしい」これらの主張は受け入れられるかどうかは別として、すごく真っ当な意見だと思えるだけにもったいないと思います。

 

 

まぁ、ものすごく普通の意見書いてしまいましたが、ここからが本当に思ったことです。

 

 

信仰ってどうやって変容してきたのでしょうか。

 

最近たまたま信仰が動物を殺すという記事を読みました。

具体的には、

「トラは絶滅の危機に瀕しているにもかかわらず、中国ではトラの骨が健康に効くとして漢方薬として売られている」

という内容です。

 

 

大きな枠組みでとらえると、信仰が生命を奪わざるをえないと点では今回の蛙狩りの件と似たケースなのかなと思います。

 

 

私は、偽善かもしれませんが出来るだけ多くの弱い生命を大切に思いたいです。

人のために殺される生命は今よりももっと少なく出来るはずです。

 

 

でも方法がわかりません。

特に信仰を相手にした場合には全く方法がわかりません。

 

 

是非に関係なく思いついたのは、

①抗議活動

②署名

③法改正

④マスコミ

⑤代替案による妥協

⑥科学的根拠による信仰の否定

 

 

どれもいまいち上手くいくビジョンが見えてきません。

 

上記の案で皆が納得できて何か変わったことってどれだけあるのでしょうか。

 

わからないので、過去の事象を調べることが答えに近づく一つの方法なのかなと思います。

 

で、今回の私の疑問のモデルケースになるものは、

「黒人奴隷の廃止」と「アパルトヘイトの廃止」がぱっと思いつきました。

 

これらは制度ですが、制度がほとんど信仰のかたちに昇華しているケースなのかなと思います。

 

上にあげた2つを理解すれば、「信仰の変容」に対する私の疑問も少しは解消される気がします。

 

 

もちろん上記の2つの制度は神事とはかけ離れたものであることは百も承知です。

でも他に研究としての題材が思いつきませんでした。

 

「生類憐みの令」が廃止された経緯とかを調べればいいんでしょうか?

 

 

宗教や信仰には実際そこまで詳しくありません。

 

なにか勉強の題材として良いものがあれば是非教えて頂ければと思います。

 

 

最近、信仰だけでなく世の中の色々なものが良い方に変わればと思う機会が多かったため、このような記事を書かせて頂きました。