成毛眞「本を読まない人はサルである!本は10冊同時に読め!」
先に断っておくが、タイトルは私の言葉ではない。
誰かがうっかり言ってしまった失言でもない。
成毛眞という人が書いた本のタイトルの一部なのである。
そもそも、成毛眞という人をご存じだろうか。
本を読まない人をサルと呼ぶくらいなのだからとんでもないおやじである。
一時は日本マイクロソフト株式会社の社長もしていたのが信じられない。
今は『HONZ』という書評HPの運営をしている。これまた素晴らしいHPなのでとんでもないおやじがやっていると思うと信じられない。
(読書量や考え方を知れば全然信じられないことはないのだが。)
私の中で読書と言えば佐藤優や立花隆がすぐに思い浮かぶのだが、そのラインナップに成毛眞も名を連ねた。とんでもない怪物である。
その怪物具合が知れるのが『本を読まない人はサルである!本は10冊同時に読め!』という本なのだ。
ただ、本を何冊も並列して読むことは、今では様々な読書本に取り上げられている内容である。
だからこの記事では本書の主題の、『本は10冊同時に読め』ということについて書きたいわけではない。
私がこの本を読んでほしいと思うのは、この成毛眞というおやじがどれだけとんでもない人間で、どれだけ面白い人間かということを知ってほしいからである。
例えば、成毛眞の娘が塾に行きたいと行った時の話。
私は娘が学習塾に通いたいと行った時にも、「勉強してどうするんだ」と塾に行かせなかった親である。娘は学校の成績はそれほど良くなかったが、本と映画に関してはそのへんの大人よりも詳しい。
娘さんはどう納得されたのだろうか。。。
また、文章の上手さ至上主義のようなところがある。
面白い本を読まなければ、読書にハマることなど一生ないだろう。周りがみんな「名作だ」と絶賛している本でも、ムリして感動する必要などない。私にとっては志賀直哉の本は焚書である。あまりにも文章が下手なので、小説の神様と呼ばれているのが子どものころから不思議だった。
どちらのエピソードも一般人の思考とは異なる。だが、読書をする人の目的の一つは庶民を抜け出すことだ。このことも少なくない本によく書かれていることである。
成毛眞も冒頭でこの本で紹介するのは、「庶民」から抜け出すための読書術である。と述べている。
そういった意味では、成毛眞は経歴も考え方も庶民離れしている。ノーベル物理学賞を受賞しながらも破天荒な生き方をしたファインマンに似ているのかもしれない。
実際、本は10冊同時に読め!でも『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を勧めている。
この本は私も大好きな本であり、多くの読書家たちに勧められている本なのでこちらも是非読んでみてもらいたい。
これまで『本を読まない人はサルである!本は10冊同時に読め!』を紹介してきたが、本書の良さを1%も伝えられていないことは自覚している。
だから是非、本手にとって読んでみてほしい。かなり過激な内容になっているが、普段本を読むようなサルじゃない人は読んでも精神的ショックは少ないと思う。
私は本書を読んで成毛眞が一気に好きになった。
とんでもないおやじなどと悪口を言ってしまったので 、最後に本書に書かれている最も共感した文章を紹介したいと思う。
本を読む・読まないという行為は、その人の品格に関わってくるのではないかと思う。品格に読書は関係ないと否定する人もいるかもしれない。だが、本を読んでいる人間が車の中に幼児を置いたままパチンコに興じるとは思えないし、電車の中で平気で化粧をするとも考えづらい。
なぜなら、本を読むには想像力が必要だからだ。
単なる活字の並びを目でなぞり、そこから遠い異国の情景を思い浮かべたり、目に見えない哲学や理論を構築したりするのだ。想像力が欠如している人間には、到底味わうことができない媒体なのである。
そうした想像力があれば、厚い車内に幼児を置き去りにしたらどのような結果を招くか、電車内で化粧をしたら周りの人間がどう思うのか。ということに思い至るはずだ。それができないような人間には、本は読めないということなのである。
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本をよく読む人と言うのは、地位や収入にかかわらずどこか品性があり、含蓄のある話をするので一緒にいても面白い。
人間の品格や賢さに地位や年収は関係ないのだと、つくづく思う。話せばすぐにわかるが、人は中身まではごまかせないのだ。
どんなに偉い人でも、本を読まない人間を尊敬する必要はない。人によく似た生き物、サルに近いんじゃないかと思えばいいだろう。
本と想像力の関係を見事に書いてくれている。