活字離れ、物語離れ、読書の壁
養老孟司の本のタイトルみたいになってしまったが、真面目な話をしたい。
読書には読書から離れていく要因や高い壁があるように思うので、それを考えていきたい。
活字離れ
若者の活字離れという言葉があるくらいなので、やはり読書にはほおっておいたら離れてしまう斥力みたいなものが発生していると思っていいかもしれない。
個人的には若者はスマホを通して、とんでもない量の情報を活字から得ているのではないかと思うので、やはり、みんなが離れて行ってしまうのは活字ではなく、読書なのだと思う。
若者が活字にくっつけなくなって識字率が下がったというような悪いニュースも日本では聞いたことがない。
日本の識字率は99%である。ちなみに北朝鮮も識字率は99%である。一番低いのはマリで、26.2%である。
マリでは4人に一人くらいしか字が読めないことになる。これは想像だが、字が読める人のほとんどが男性なので、きっと子どもに本を読み聞かせる母親もいないという悪循環にはまっていることが想像できる。
そういう状況を打破するために家づどうしているNPOもいる。
気になった方は是非『マイクロソフトでは出会えなかった天職』という本を読んでみてほしい。
余談でした。
物語離れ
話を戻す。私は物語が嫌いという人に出会ったことはない。とんでもない知識人の一部には、小説を読む暇がないとか、フィクションに魅力を感じないとかいう人もいるが、それでも嫌いという人はいない。
「物語だけは聞きたくない!やめてくれ!」と叫ぶ子どもを現実世界でもフィクションの中でも見たことがない。
むしろみんな、映画は見に行くし、ドラマは見るし、漫画も読むし、アニメも見る。子どもたちはみんな絵本を読んでもらうことが好きだ。
だから、幸運なことに物語離れも今のところ進行していない。
読書の壁
「本には何かある。」これはレイブラッドベリの華氏451度に出てくるセリフである。
そう、本には何かある。魅力が詰まっている。引き付けたら離さない何かがある。
一方で、簡単には寄せ付けないような斥力があるのも事実だ。
私はそこを解明したい。
絵本と活字の間の壁
まず思いつく一つ目の壁が、絵本と活字の間の壁だ。思い出してみてほしいが絵本が嫌いだった人はいないはずだ。色とりどりの風景や個性的なキャラクターが出てくる絵本は楽しかったはずだ。
ただ、それらが活字のみになると消え去ってしまう。そのストレスが読書への道を閉ざす一つの要因だと思う。実際、絵本の形式に近い漫画は多くの人に好まれていることからも、映像がないというのは読書離れの大きな要因なのだろう。
きっと多くの人にとって想像することすら手間なのだと思う。
自分の想像力を広げていく読書の魅力を伝えられていないことが読書の壁を作り出している要因ともいえる。
手軽さの壁
読書は手軽なツールではない。読むのにも時間がかかる。それが読書の斥力のもう一つの要因だと思う。
スマホでアプリをダウンロードするだけでゲームを楽しめてしまう現代において、手軽さの点で本は見劣りしてしまっている。
映画などでは味わえないその重厚な時間を主人公と旅することは大きな魅力の一つのはずなのだが、その魅力も誰も伝えることが出来ていないのだろう。
実際、私もそんなこと教えてもらった記憶がない。実は本も開くだけでその世界に入り込める手軽な手段なのだが、それもきっと伝わっていない。
最後に
こう考えると、活字離れも物語離れも進行していない。私たちに必要なのは『はらぺこあおむし』から『エルマーのぼうけん』に繋がる何かを伝えることだと思う。
それをはっきりさせない限り、読書への扉は多くの人に認識すらされないと思う。
入口は母親が絵本と共に開き、そのあとはほったらかし。義務教育でも読書の時間が取り入れられたりするが、それも自発性に頼っている部分が大きい。
課題図書やそれに付随する読書感想文だって強制力が大きい。今このようにブログを書いている私だって読書感想文は大嫌いだったし、何のためにやっているのかわからなかった。
つまり、今読書から人が離れて行ってしまっている大きな要因は、読書の魅力を伝える努力があまり為されていないからではないかと思う。
読書をすれば何が得られるのか、どのタイミングでどのような本に出会うべきなのか、もっと踏み込めば今その人がどのような本を求めているのか。
そのようなことに踏み込んで伝えようとしない限り、今のような多くの人が読書に触れず、書店が次々閉店していくような状況は止められないのではないかと思う。
絵本の読み聞かせの後に我々は何をしてあげるべきなのか、考えていく必要があるように思った。