獣医学部を目指す受験生必見。獣医学部が抱える問題を知っていますか?
2017/0611 この記事を書くきっかけになった『生き物と向き合う仕事』の著者であり、獣医師の田向健一先生よりtwitterでコメントを頂いたので、そちらを追記した。
家計学園の問題がニュースを騒がせている。
このこと自体は多くのメディアで報道されているので、私はここで論ずるつもりはない。
そうではなくて、少なからず多くの日本人が獣医に関心を持っている今、日本の獣医学部が抱える問題点を知っていてほしいと思う。
特に、獣医学部を目指すご子息がいる方には知っていてほしいです。
獣医学部と動物実験
問題の一つは、日本の獣医学部では『動物実験』をほとんどの学生が経験するということです。(確か義務だった気がします。)
獣医学部で実施される多くの動物実験は、動物に危害を加えることが必要であり、多くの場合、死に至らしめることになります。
考えるまでもなく獣医師を目指す多くの人は、動物を愛している人が多いと思います。そして将来的に動物を救う仕事がしたいと思う人が多いはずです。
それなのに単位取得のためにやりたくもない動物実験を実施し、動物を殺すことになる。
これは非常にショッキングな体験です。
私自身は農学部の出身ですが、大学の授業の一環で1匹だけマウスを殺し解剖したことがあります。(これも必修でした。)
まず、先輩がどのように解剖するのか見本を見せてくれたのですが、あまりの光景に失神する女の子すらいました。
それほど、死というものは大きな衝撃を与えます。
ただ、学部、あるいはそのあとに配属される研究室では日常的に動物実験がおこなわれる場合があります。
そんなときにいちいち大きなショックを受けていては心が持ちません。
私は心理学の専門ではありませんが、動物実験に携わる多くの人はきっと自己防衛の一環として動物を殺すことに『慣れ』るのだと思います。
そして、その背景には医学の進歩という大義名分もある。
実際、日常的に動物実験を行う友人をみているとそこには善悪の感情は無かったように思います。
だから、まずは獣医学部とはそういうところの可能性があるということを知っていてほしいです。
動物実験のない獣医学部
何かの本で読みましたが、アメリカのどこかの大学では動物実験をせずに獣医学の学位をとれる大学もあると知りました。
全ての獣医学部が動物実験を廃止するべきだとは思いませんが、動物実験を廃止する獣医学部が日本にできればそれはそれで多くのニーズを満たすことになると思います。
心からそんな獣医学部が出来ればなと思います。
獣医学とは何か/動物と向き合う仕事
獣医学は元々、人類の健康を職を守るための学問だから、動物を救うことが真理ではない。
臨床現場で出会った生き物たちを通じて考える
命とは、病気とは、生きるとは?
(生き物と向き合う仕事/田向健一)
獣医学とは何かを考える上で、参考にすべき本があります。
田向健一さんの動物と向き合う仕事という本です。
獣医学部で何を学ぶのかというような基本的なことまで書いているので、興味のある方は是非手に取ってみてほしい。
基本的ながらもきちんと学問のことを教えてくれるので、勉強の道具にもなりえる。獣医学部の1・2年生くらいでどんなことを学ぶのかということの参考にもなると思います。
ただ、ずいぶん前に読んだ本ですが、強く印象に残っていることがあります。
それは、この著者が動物に対して愛情を持っていると同時に、非常にドライな感情も持ち合わせているということでした。
最初に引用した文章からもその一端を覗くことができると思います。
twitterで田向健一先生からコメントを頂くことが出来ました。
原文のまま紹介いたします。
はじめまして。こちらこそ拙著を引用していただき感謝しております。獣医学部では、ペットの病気の勉強は半分もしない、ということはあまり知られていません。それを知って欲しくあの本を書きました。今回の騒動も含め、獣医学部を知るきっかけになればと思っています。
— 田向健一 (@tamuken714) 2017年6月11日
超個人的にですが、本の著者の方とコミュニケーションを取れたのは初めてだったため非常に斬新で嬉しかったです。
命の価値を高めるために
ここからは私の想像ですが、獣医学部は動物実験を通して、動物に対してドライになるような価値観を学生に植え付けるような一面があるのではないでしょうか。
そして、そのような価値観のもとに獣医師立会いのもとによる動物の殺処分が行われたりしている可能性があるのではないかと思います。
20歳前後という多感な時期に、強制的に動物実験を行うことが私には正しいこととはどうしても思えませんでした。
だから、あえて獣医学部の問題として問題提起させていただきました。
関連記事
獣医以外にも動物のための学問は存在します。私が知っているのは動物行動学という学問です。
そのことについて記事を書いたので関心のある方は是非読んでみてください。
活字離れ、物語離れ、読書の壁
養老孟司の本のタイトルみたいになってしまったが、真面目な話をしたい。
読書には読書から離れていく要因や高い壁があるように思うので、それを考えていきたい。
活字離れ
若者の活字離れという言葉があるくらいなので、やはり読書にはほおっておいたら離れてしまう斥力みたいなものが発生していると思っていいかもしれない。
個人的には若者はスマホを通して、とんでもない量の情報を活字から得ているのではないかと思うので、やはり、みんなが離れて行ってしまうのは活字ではなく、読書なのだと思う。
若者が活字にくっつけなくなって識字率が下がったというような悪いニュースも日本では聞いたことがない。
日本の識字率は99%である。ちなみに北朝鮮も識字率は99%である。一番低いのはマリで、26.2%である。
マリでは4人に一人くらいしか字が読めないことになる。これは想像だが、字が読める人のほとんどが男性なので、きっと子どもに本を読み聞かせる母親もいないという悪循環にはまっていることが想像できる。
そういう状況を打破するために家づどうしているNPOもいる。
気になった方は是非『マイクロソフトでは出会えなかった天職』という本を読んでみてほしい。
余談でした。
物語離れ
話を戻す。私は物語が嫌いという人に出会ったことはない。とんでもない知識人の一部には、小説を読む暇がないとか、フィクションに魅力を感じないとかいう人もいるが、それでも嫌いという人はいない。
「物語だけは聞きたくない!やめてくれ!」と叫ぶ子どもを現実世界でもフィクションの中でも見たことがない。
むしろみんな、映画は見に行くし、ドラマは見るし、漫画も読むし、アニメも見る。子どもたちはみんな絵本を読んでもらうことが好きだ。
だから、幸運なことに物語離れも今のところ進行していない。
読書の壁
「本には何かある。」これはレイブラッドベリの華氏451度に出てくるセリフである。
そう、本には何かある。魅力が詰まっている。引き付けたら離さない何かがある。
一方で、簡単には寄せ付けないような斥力があるのも事実だ。
私はそこを解明したい。
絵本と活字の間の壁
まず思いつく一つ目の壁が、絵本と活字の間の壁だ。思い出してみてほしいが絵本が嫌いだった人はいないはずだ。色とりどりの風景や個性的なキャラクターが出てくる絵本は楽しかったはずだ。
ただ、それらが活字のみになると消え去ってしまう。そのストレスが読書への道を閉ざす一つの要因だと思う。実際、絵本の形式に近い漫画は多くの人に好まれていることからも、映像がないというのは読書離れの大きな要因なのだろう。
きっと多くの人にとって想像することすら手間なのだと思う。
自分の想像力を広げていく読書の魅力を伝えられていないことが読書の壁を作り出している要因ともいえる。
手軽さの壁
読書は手軽なツールではない。読むのにも時間がかかる。それが読書の斥力のもう一つの要因だと思う。
スマホでアプリをダウンロードするだけでゲームを楽しめてしまう現代において、手軽さの点で本は見劣りしてしまっている。
映画などでは味わえないその重厚な時間を主人公と旅することは大きな魅力の一つのはずなのだが、その魅力も誰も伝えることが出来ていないのだろう。
実際、私もそんなこと教えてもらった記憶がない。実は本も開くだけでその世界に入り込める手軽な手段なのだが、それもきっと伝わっていない。
最後に
こう考えると、活字離れも物語離れも進行していない。私たちに必要なのは『はらぺこあおむし』から『エルマーのぼうけん』に繋がる何かを伝えることだと思う。
それをはっきりさせない限り、読書への扉は多くの人に認識すらされないと思う。
入口は母親が絵本と共に開き、そのあとはほったらかし。義務教育でも読書の時間が取り入れられたりするが、それも自発性に頼っている部分が大きい。
課題図書やそれに付随する読書感想文だって強制力が大きい。今このようにブログを書いている私だって読書感想文は大嫌いだったし、何のためにやっているのかわからなかった。
つまり、今読書から人が離れて行ってしまっている大きな要因は、読書の魅力を伝える努力があまり為されていないからではないかと思う。
読書をすれば何が得られるのか、どのタイミングでどのような本に出会うべきなのか、もっと踏み込めば今その人がどのような本を求めているのか。
そのようなことに踏み込んで伝えようとしない限り、今のような多くの人が読書に触れず、書店が次々閉店していくような状況は止められないのではないかと思う。
絵本の読み聞かせの後に我々は何をしてあげるべきなのか、考えていく必要があるように思った。
成毛眞「本を読まない人はサルである!本は10冊同時に読め!」
先に断っておくが、タイトルは私の言葉ではない。
誰かがうっかり言ってしまった失言でもない。
成毛眞という人が書いた本のタイトルの一部なのである。
そもそも、成毛眞という人をご存じだろうか。
本を読まない人をサルと呼ぶくらいなのだからとんでもないおやじである。
一時は日本マイクロソフト株式会社の社長もしていたのが信じられない。
今は『HONZ』という書評HPの運営をしている。これまた素晴らしいHPなのでとんでもないおやじがやっていると思うと信じられない。
(読書量や考え方を知れば全然信じられないことはないのだが。)
私の中で読書と言えば佐藤優や立花隆がすぐに思い浮かぶのだが、そのラインナップに成毛眞も名を連ねた。とんでもない怪物である。
その怪物具合が知れるのが『本を読まない人はサルである!本は10冊同時に読め!』という本なのだ。
ただ、本を何冊も並列して読むことは、今では様々な読書本に取り上げられている内容である。
だからこの記事では本書の主題の、『本は10冊同時に読め』ということについて書きたいわけではない。
私がこの本を読んでほしいと思うのは、この成毛眞というおやじがどれだけとんでもない人間で、どれだけ面白い人間かということを知ってほしいからである。
例えば、成毛眞の娘が塾に行きたいと行った時の話。
私は娘が学習塾に通いたいと行った時にも、「勉強してどうするんだ」と塾に行かせなかった親である。娘は学校の成績はそれほど良くなかったが、本と映画に関してはそのへんの大人よりも詳しい。
娘さんはどう納得されたのだろうか。。。
また、文章の上手さ至上主義のようなところがある。
面白い本を読まなければ、読書にハマることなど一生ないだろう。周りがみんな「名作だ」と絶賛している本でも、ムリして感動する必要などない。私にとっては志賀直哉の本は焚書である。あまりにも文章が下手なので、小説の神様と呼ばれているのが子どものころから不思議だった。
どちらのエピソードも一般人の思考とは異なる。だが、読書をする人の目的の一つは庶民を抜け出すことだ。このことも少なくない本によく書かれていることである。
成毛眞も冒頭でこの本で紹介するのは、「庶民」から抜け出すための読書術である。と述べている。
そういった意味では、成毛眞は経歴も考え方も庶民離れしている。ノーベル物理学賞を受賞しながらも破天荒な生き方をしたファインマンに似ているのかもしれない。
実際、本は10冊同時に読め!でも『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を勧めている。
この本は私も大好きな本であり、多くの読書家たちに勧められている本なのでこちらも是非読んでみてもらいたい。
これまで『本を読まない人はサルである!本は10冊同時に読め!』を紹介してきたが、本書の良さを1%も伝えられていないことは自覚している。
だから是非、本手にとって読んでみてほしい。かなり過激な内容になっているが、普段本を読むようなサルじゃない人は読んでも精神的ショックは少ないと思う。
私は本書を読んで成毛眞が一気に好きになった。
とんでもないおやじなどと悪口を言ってしまったので 、最後に本書に書かれている最も共感した文章を紹介したいと思う。
本を読む・読まないという行為は、その人の品格に関わってくるのではないかと思う。品格に読書は関係ないと否定する人もいるかもしれない。だが、本を読んでいる人間が車の中に幼児を置いたままパチンコに興じるとは思えないし、電車の中で平気で化粧をするとも考えづらい。
なぜなら、本を読むには想像力が必要だからだ。
単なる活字の並びを目でなぞり、そこから遠い異国の情景を思い浮かべたり、目に見えない哲学や理論を構築したりするのだ。想像力が欠如している人間には、到底味わうことができない媒体なのである。
そうした想像力があれば、厚い車内に幼児を置き去りにしたらどのような結果を招くか、電車内で化粧をしたら周りの人間がどう思うのか。ということに思い至るはずだ。それができないような人間には、本は読めないということなのである。
・・・
本をよく読む人と言うのは、地位や収入にかかわらずどこか品性があり、含蓄のある話をするので一緒にいても面白い。
人間の品格や賢さに地位や年収は関係ないのだと、つくづく思う。話せばすぐにわかるが、人は中身まではごまかせないのだ。
どんなに偉い人でも、本を読まない人間を尊敬する必要はない。人によく似た生き物、サルに近いんじゃないかと思えばいいだろう。
本と想像力の関係を見事に書いてくれている。
私がオーディオブックをおすすめする11の理由
1.読まなくていい
本が苦手な理由第一位は文字を追うことが嫌いということだが、オーディオブックは読まなくていい。
私は本そのものが憎くて憎くて仕方ないというような人には幸運にも出会ったことがない。私があったことのある大半の人は普通に物語が好きで、漫画もドラマも映画もRPGも楽しめる人ばかりだ。
物語は好きだけど活字だけは・・・という人には是非オーディオブックを聴いてみてもらいたい。
世界が広がるはずだ。
2.手軽
スマホにアプリをインストールするだけでその瞬間からオーディオブックを楽しめる。他には何もいらない。本棚もいらない。
3.名作ばっかり
オーディオブックの録音はかなり大変だ。全部人が実際に読んでいる。
そして、小説であれば10時間を超えるものもある。はっきりいって駄作にそんな労力をかけられないので、必然的に良い本がオーディオブックになっていく。
つまり適当に選んでもよい本に出会えることがおおい。
4.財布に優しい
普通に本を買うよりちょっと安い。おおざっぱにいって10%オフくらいのイメージだ。
そしてセールもある。セールがあることの良さは、セールにつられてほしくもなかった本を買ってしまうことである。そこで素晴らしい本に出会えたらそれにまさる喜びはないと思う。
5.買いに行かなくていい
データだけなので本屋に行かなくていい。つまり自宅と言う世界で最も安全な場所から一歩も出ずに読書の世界を楽しめる。
6.声優さんが読んでくれることがある
よほどコアなファンじゃない限り声優さんが演じているオーディオブックまでフォローしている人はいないはず。
ファンの中でも一歩リードできるチャンスがオーディオブックにはある。
7.耳学問という最高の勉強効率が得られる
耳学問は勉強効率が高いことが知られている。東大合格者の中には教科書を自分で読んだものを録音して聴き直す猛者もいるらしい。
8.聴きながらなんでもできる
車の運転も、ランニングも、筋トレも、ショッピングも、音楽だけじゃなくてオーディオブックという選択肢もある。
9.他に実践している人がいない
私は今までオーディオブックの良さを色んな人に勧めてきたが、未だにオーディオブックを聴いているという人に出会ったことはない。
つまり、他者に差をつけるチャンスだと言える。他人のしていないことをしよう。これもオーディオブックから学んだことだ。
10.想像力・共感力が上がる
読書は想像力や共感の能力に役立つことは科学的に証明されている事実だ。
そしてそれをさらに高めてくれるのが、声優さんたちの心のこもった演技だ。
11.本を読んでもらえるという事実
大人になると誰も本なんて読んでくれなくなる。でも、オーディオブックだけはいつまでも私たちの味方だ。
最後に
繰り返すが、本が嫌いな人はいない。物語が嫌いな人もいない。絶対に。
考えてみてほしいが、一日のうちにまったく物語に触れないなんて日はない。(みんな大好きな妄想も物語だ。)
その物語の中に『本』という選択肢を加えてあげてほしい。私たちの周りにある物語の世界にきっと奥行きが出るはずだ。
そして、そのためのもっとも簡単な方法がオーディオブックだと断言できる。
評論への架け橋としての小説。私にはもう小説を読んでいる時間はない。
「私にはもう小説を読んでいる時間はない」とは立花隆の言葉です。
立花隆はwikipediaにこう紹介されています。
立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年5月28日 - )は、日本のジャーナリスト・ノンフィクション作家・評論家。知りたいという根源的欲求は人間にとって性欲や食欲と並ぶ重要な本能的欲求であると位置づけ、その強い欲求が人類の文化を進歩させ科学を発達させた根源的動因と考える。その類なき知的欲求を幅広い分野に及ばせているところから「知の巨人」のニックネームを持つ。
私が今一番尊敬している人です。
その知的好奇心の広さ・深さ、その記憶力は本当に常人を凌駕しています。
もし、これから教養を身につけていきたいという人がいれば絶対に立花隆をオススメします。
その中でもオススメの本はもう何度も紹介した立花隆の書棚という本。難しいこともわかりやすく書いてくれている。そして立花隆の乱読に触れることができる。
読んでみてほしい。知的好奇心が痛いくらい刺激されるから。
そんな人が、述べた言葉に驚愕した。
『私にはもう小説を読んでいる時間が無い』
そう思う日が自分にも来てしまうのかと思うと少し寂しくなった。
小説は確かに勉強という面では費用対効果の薄いものであるかもしれないが、正しく感じることが出来れば小説だって十分役に立つと考えている。
むしろ世界に広く訴えかけるためには小説は非常に高度な伝達媒体だとも感じる。実際に世界で最も売れた本の上位のほとんどは小説だ。
さらに言えば、評論を通じて本が好きになる人間などほとんどいないと胸を張って言える。(私はセンター国語の評論をかなり多く取り組んだ過去があるが、全編通して読みたいと思うような文章は一つもなかった。たとえそこに立花隆の文章があったとしても)
しかしながら教養や知識を得るための最短の方法は教養のための本を読むことである。しかし、評論はとっつきにくい。
そこで、評論へのとっつきにくさを解消するのが小説の役割なのではないかと考えている。
まずは小説を通して、空想の世界の物語を楽しみつつ文字を追う能力を養い、いずれ何らかのきっかけをもって評論の世界を知る。
そういう役割が小説にはある。だから小説は素晴らしく、そしていつの世にもその時代にあった小説が必要とされるものなのだと思う。
そしてその役割を個人で果たしてきた小説家には本当に感服している。
だから、私は小説を見捨てるような思いには呑み込まれたくないと考えているのだが、やはり何かを得るためには何かを犠牲にする必要があるのも心理の一部であり、その時に小説を切り捨てるというような非情な選択が自分にも課される日が来るのではないかと恐れおののいたのである。
そんな日に「もっと小説を読んでおけばよかった」と後悔しないように今から読書をたくさんしておきたいと思うし、その中にちゃんと小説も入れておこうと思う。
そして皆さまも胸に刻んでほしいのだが、人が一生にできる読書の量には限りがある。(もちろん人が一生に吸える煙草の量にも限りがあるのだが。)
ただ、頭のいい人や人生で長期的に成功している人のほとんどは読書をしている。
だから、読書をしよう。小説を読もう。書を捨てて街に出たってすることなど無いのであれば、家にこもって読書をしよう。
それは全くかっこ悪いことじゃない。それを証明している先人はたくさんいるのだから。
響~小説家になる方法~にとって綿木りさの蹴りたい背中は必然だと思う
響~小説家になる方法~という漫画が2017年の本屋大賞に選ばれた。
高校の文芸部を舞台にしている稀有な漫画である。
その中で描かれる主人公の響は小説を書くことに天賦の才を持っている、普通の高校の文芸部員だ。(ちなみに響のキャラクターはかなり偏っており、それがこの漫画の人気の秘訣だと思う。)
その響の世界には芥川賞も直木賞もある。人気小説家もいれば一発屋のような小説家、何年もアルバイトをしながら芥川賞を狙う小説家もいる。
彼らと触れ合いながら、その多くの場合、圧倒しながら響の生活は送られる。そんな小説界と学園生活の二面を描くのが響という漫画だ。
ただ、響という漫画を読んだ方の中には私と同じような疑問を抱いた人も多いと思う。
女子高生が書いた小説など大したことがないのではないか?
人生経験もないのに大人を感動させる小説が書けるわけない。
所詮、漫画の世界の話だ。
そう思うのも無理もないと思う。なぜなら現実世界で女子高生が書く小説が旋風を起こすことなどほとんどないのだから。
でも、私の記憶に引っ掛かる人物がいた。
綿木りさという小説家だ。
そして、この綿木りさという小説家と蹴りたい背中という小説が響の世界に奥行きを持たせる上で必然だと思うのである。
なぜならば綿木りさは現実の世界で、19歳のときに蹴りたい背中で芥川賞を受賞した女流作家だからだ。これは響の世界と同じくらい現実味がないが、しかしながら響の世界と違うのは現実という点である。
蹴りたい背中の冒頭の3ページを読むだけでもその感性に圧倒される。
そして、響の世界は嘘じゃないと気付く。19歳でもこんな文章が書ける人がいるのだからと。
だからこそ響という漫画が好きな人にとって蹴りたい背中は必然だと私は思う。
本当に最初の3ページを読むだけでもいいので是非、手に取ってみてほしい。
きっと響の世界に今まで以上に共感できるはずだ。